ボクの半生を経歴にしていましたので、公開致します。
人生色々ですね。
もし、他の方からもそんな文が送信されると嬉しいです。
ボクは子供の頃は、年子の兄や近所の友達とクワガタ取りや野球、下らないゲーセンとかで遊んで
いました。
特に野球が大好きでした。
毎日野球、野球でした。
たまに、クワガタ取りやゲーセン、キックベースにハンドベースで遊んでいました。
プロ野球は大のヤクルトファン。
魅力は、とにかくよく打つこと。
若松に大杉にマニエル、流石に名前は忘れましたが、下位打線もよく打ちました。
ボクがヤクルトファンになって3年目。
その当時は、巨人戦しかテレビ中継されていませんでした。
ヤクルトが巨人を逆転した時には家中を走り回り、変な事を叫びながら、飛び上がって喜んだもの
でした。
遂に巨人を倒し、リーグ優勝。
そして、今まで巨人が勝てなかった阪急ブレーブス(現オリックス)を破り、初の日本一。
本当に嬉しかった。
中学はもちろん野球部。
でも、体の小さなボクは他の部員の凄さを思い知らされました。
「こいつら、絶対プロになるな。」と思う部員がいっぱいいました。
でも、世の中広いですね。
彼らでさえ、甲子園はおろか、高校ではあまり活躍しませんでした。
ボクはとにかく負けず嫌いで、彼らよりうまくなろうと思いましたが、ダメでした。
高校からはラグビー部。
ポジションはスクラムハーフ、背番号「9」。
スクラムに楕円ボールを入れて、後ろへ回ってできるだけ素早くパスを出す。
モール・ラックも然り。
カバーディフェンス、相手のスキが分かると自らトライに行く。
そんなポジションです。
身長は166センチで小さいです。
背番号「9」の選手が他の選手より一回り体が小さいのが、テレビで観ると分かります。
練習はもの凄くきつかったけど、面白いスポーツでした。
長崎東高でラグビー一筋でやっていました。
大学から上京。
成城大学という日本一のお坊ちゃま大学です。
うちは違いますが、受験の時全部落ちてしまって、その後成城大学の二期募集があったんです。
それに運よく受かって、その合格発表が3月15日でその日まで受験に悩まされました。
かなり受かるの難しい大学なんですよ。
長崎市から上京し、若いボクが興味を持ったのは「芸能界」。
世田谷区の家賃の高いアパートに住んだボクは、実家からの仕送りだけでは足りません。
映画・ドラマのエキストラで多くの有名な俳優さんを見ました。
名取裕子さんとは沢山しゃべりました。
それと、当時新宿のコマ劇場で公演していた榊原郁恵さんの「ピーターパン」の裏方。
比企理恵さんと少しだけしゃべりました。
47回も観覧しました。
そしてバイトではないですが、感動したのは劇団四季のミュージカル「Cats」。
最初は一人で、その後2・3回友達を誘って行きました。
友達も感動していました。
長崎市には、そういうのがないのが寂しいです。
その後、日本テレビ放送網のスポーツ局でアルバイト。
夜中にタクシーで帰っていました。
仕事は主に、巨人戦放送のサポート役。
当時は東京ドーム建設中で、後楽園球場でした。
仕事はピッチャーのスピードガン表示。スコアラー。ストライク、ボール、アウトの表示。夜のスポー
ツニュースのAD等々でした。
丁度その頃、ローマで世界陸上中継を日本テレビが放送権を取り、中でも注目は「カール・ルイス
対ベン・ジョンソンの100M走。」
ベン・ジョンソンが世界記録で優勝。
彼はソウルオリンピックでも自らの記録を更新して優勝。
しかし、その後ドーピングの陽性反応で失格。今は、陸上連盟から追放。
その幻の記録が9.79。現在のボルト選手の記録が9.58。隔世の観がありますね。
結局ボクは、芸能界にもマスコミにもあまり興味が持てず、2年生の秋から体育会ラグビー部に入
部。
本当はダメなのですが、知り合いの紹介で入部しました。
練習はとにかくキツイ。「死ぬ。」と思いました。
体が慣れたのは3年からでしたが、高校時代とは自分の体が変わっていて、肉離れで練習ができ
なくなりました。
それで元の体に戻ってしまいました。
4年からは少しスポーツ医学を心得て練習しました。
ただ、70人の大所帯。7人で1つのポジションを争います。諦めなかったけど、結局レギュラーにな
れませんでした。
入部するのが遅過ぎました。
でも、一般の友達とラグビー部の友達と沢山できた事で、途中入部で良かったと思っています。
社会人になってからは、披露宴のご祝儀貧乏になりました。
だって、皆金持ちだから5万円包むんだもん。それに合わせなくてはなりませんし、呼んでくれるの
は嬉しいけれど、それが何度もでした。
会社は世間知らずだったボクは、早くグラウンドに戻りたいから、「一部上場ならいいや。」と言った
安易な考えで入社しました。
渋谷駅から1分かからない場所に会社はありました。
そこに10年間お世話になりました。
7年は法人営業第一線、3年は営業管理部門。
入社2年目にバブルがはじけ、営業手当てカットで大変になり、好きな車も売りました。
学生時代勉強していなかったので、それから勉強する様になりました。
税理士よりも難しい国家試験に4年間チャレンジしましたがダメでした。
専門学校に大金を払って、それで落ちた時のショックは半年ぐらい続きました。
ある日、自分の課に会社で一番コンピュータに詳しい先輩が入ってきました。
その方から色々教わって、もう古いプログラミングソフトですが、それで10日かかっていた業務を1
5分で終わらせる様にしました。
他にも応用が利いて、色々な業務工数を削減しました。
ボクは「遂にやった。皆の苦労を無くしてあげた。」と思いました。
何日か経って、そうではない事に気付きました。
何故なら、皆の仕事が無くなってしまうのですから。
ボクの考え方はある意味では不真面目で、仕事が無くなったら喫煙所でコーヒーを飲みながら談笑
したものでした。
まだ、不況で会社の雰囲気は暗かったです。
明るさだけが取り柄のボクは、そこにギャップを感じ、これが退社する原因の大きな1つになりまし
た。
その後、中小企業で働きましたが、やはり新卒で上場企業の方がいいですね。
転々として、間の期間はアルバイトで保育園の補助。サッカーや野球、コマ回しを教え子供たちか
ら凄い人気でした。
フランス料理店のバイトが自分に合っておらず、料理人の上下関係と肉体的疲労で、寂しくて悔し
かったけど、長崎市へ帰郷を決意しました。
18年間の東京暮らしにピリオドを打ちました。
長崎市でも就職したり、バイトしたりしましたが、結局小さな会社を作りました。
まだ、社会性、公共性、公益性に乏しく、利益はあまりありません。
だから、ここでは割愛します。
高橋耕造。
2010/7/11。
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